”もし私に言葉をくれるなら、話すことを始めよう。もし私に優しくしてくれるなら、愛することを始めよう。もし私に手をかしてくれるなら、歩き始めよう”とシチリアの小さな村の小学校の壁に書かれている。分厚い子供の教育本などよりずっといい。もうひとつあるとしたら”もし私に返事をくれるなら、その人を知ろうと努力し始めよう”と付け加えてみたい。
しかし子供の質問はいつでもムズカシイッシモ(イタリア語形容詞の最上級。例:ピアニッシモ、フォルティッシモ)。息子のトモは4歳半で、いつも返事に困るようなことを聞く。いつだったかは、雷がなって2人で走って家に帰る途中、「パパ、もし雷が僕らに落ちてきて死んじゃったら、それは神様が望んだことなの?」と訊ねる。この間は一面の星空をみて、「パパ、どうして空には終わりがないの?」
昨晩トモを寝かしつける前に、ベッドで手塚治虫の"ブッダ"を読んでいた(日本の漫画は大量にイタリア語に訳されてイタリアに入っている。手塚治虫の漫画もその一つだ。ブッダは幼稚園でのキリスト教一筋の教育に対抗して買ってみた)。しばらく読んでようやく眠りにつこうという時、トモは突然起き上がり、「パパ、最後に一つだけ聞きたいことがあるんだ、一つだけどうしても、お願い」というので、なんだろうと思ってOKする。質問は「パパはどうして鼻の穴にたくさん毛があるの?」だった。
フランソワ・ラベレが”子供は空っぽの鉢を埋めるものではない。火を付けるものなのだ”と書いていたことを思い出す。進化論者ダーウィンの理論を説明する気力も失せるが、とっさに「パパの鼻に毛があるのは、僕のおじいさんがサルだったからだよ」というと、真顔で「ああ、知らなかったよ」だって。
この場合一体なんて答えたらいいか、わかりやすく返事をしようと落ち着いて考えていると、横からトモのイビキが聞こえてきた。今度も”なんでも知っているパパ”の威厳は保たれたはずだと胸を撫で下ろす。
シルヴィオ |