「パパラッチ」-書かれなかった原稿 2004年3月にピエルサンティが執筆中だった「パパラッチ」の原稿が、訳あって中断されたまま手元にあります。このまま眠らせておくにはあまりにも惜しいので「森の書斎から」に掲載することにしました。本来は新書で刊行予定の本のために執筆していたもので、中断とはいえ「森の書斎から」には長いのですが、そのままの形で連載をします。
「パパラッチ」は雑誌「クレア」(1997年)の署名記事、前著『イタリア人の働き方』(2003年)の第六章IIに書いた記事をもとに書こうとしていました。彼がジャーナリストとして生き抜いてきた50年、その仕事のなかで出会ったパパラッチ達を主役に、敗戦直後の貧しかったイタリア、奇想天外で陽気で底抜けなイタリア人、美しい都ローマ、当時の空気がそのまま伝わりそうな文章で、笑いころげながらちょっと涙ぐんでしまいました。
イタリア語の原文をつけます。日本語訳は朝田今日子ですが、読める方はどうぞそのまま原文で。名訳、ご批評…、お寄せ下さい。イタリア語に訳してピエルサンティに伝えます(2005.12.1 記)。 |
1 パパラッチ・最初のスクープ
タイロン・パワーは魅力的な正装(フォーマル)で花嫁を待っていた。花嫁の名はリンダ・クリスティアン。ローマの中心街、見晴らしのよい丘にあるフォロ・ロマーノ(古代ローマ帝国の政治の中心地であったすばらしい遺跡)のサンタ・フランチェスカ教会での出来事である。
教会の外では何千人ものファンが内陣を囲む大理石の後ろで騒動を起こしていた。ひっきりなしにカメラのシャッターを切る音がし、誰もが撮れるかどうかわからない奇跡の瞬間を待っていた。周りには12人のボディガードが見守っている。
そこへ1台の銀色のロールスロイスが表れ、教会の前にとまる。「花嫁!花嫁!リンダ、リンダ、君はなんて美しいんだ!」と人々が叫ぶ。まるで発作が起きたかのような騒動だ。目もくらむような真っ白なドレスに身を包んだリンダが教会の中から現れる。その美しさと品のよさにため息が漏れる。
「まるで映画のワンシーンのようだった。でもこれは現実に起こったことで、ハリウッドのトップスターの結婚式の中でももっとも話題になったものだよ」撮影所の責任者で、90歳とは思えないほど若く見えるミコル・フォンターナ、同じく元気な姉のジョバンナ(88歳)がスペイン広場の後ろの撮影所で語る。
「タイロンは式のリハーサルには毎回必ずでてくるようにしていた。静かに腰をおろし、うっとりと愛する未来の花嫁を眺めていた。仕事をしている僕らやスタッフ達のこともじっと見ていたため、この男の視線に緊張しながら仕事をしたのを覚えているよ。彼は花嫁衣装に、70万リラの小切手を眉一つ動かさずにサインをした。あの時代では目の飛び出るような金額だった。だから彼は僕ら報道陣にはこの値段を伏せるように頼んだのさ。ハリウッドがお金を湯水のように使っていると、視聴者がマイナスのイメージを抱くのではと心配したのだ。昔は皆今とは違った倫理観をもっていたのさ。もっと言えば、人々に品格があったと言いたいね。近頃では話題を呼ぶために呆れるような法外な値段を提示する。お金を使う事が美徳とされるようになっている。スターに無償でブランドの洋服を提供して身につけさせる、それで宣伝効果をあげることがビジネスになっているからね。
「リンダは幸せそうに、輝くような美しさでゆっくりと前へ進む。しかしどうも僕には、彼女のドレスが上手く裾を引いていないような気がした。何か引っかかっているようにも見えた。そこでおそるおそる、彼女に近づいて引っかかっているものをのけようとした。すると、リンダのドレスの中からでてきたのは、一人のカメラマンだったのだ。」
このカメラマンは、大勢のアメリカのマスコミを押しのけての大スクープを撮ったのだと思った。この若いカメラマンの名は、マルチェッロ・ゲッペッティ。すぐさま12人の屈強なボディガードが、教会の外にマルチェッロを放り投げた。マルチェッロはファンの山の中に落ちていった。「この野郎!ドレスの中で神聖なものを全部見やがって。なんてうらやましい奴だ!」と罵声がとぶ。
しかしマルチェッロはまったく何も目にすることができなかったのだ。彼の大師匠でもあるカルティエ・ブレッソン(Cartier-Bresson)は、「もし君たちの作品に十分満足ができなかったら、それは被写体に十分近づいていなかったということだ」と常日頃言っていた。残念ながらマルチェッロは被写体に近づきすぎていたため、写真を撮ることができなかったのだ。
マルチェッロはパパラッチだったが、彼はその名前すら認識していなかった。パパラッチとはこのようにして表れ、この数年後、フェリーニの名作「甘い生活」によって世に知られるようになった。しかしこのマルチェッロの不運な冒険は、彼と彼の数えきれない程いる仲間たちのお手本となってしまった。このリンダ・クリスティアンの結婚式での「お散歩」は、パパラッチの最初の歴史に残るものとなったのだ。1949年の出来事だった。まだ敗戦のあとの辛い時代で、経済的にも倫理的にも国を立て直している最中だった。辛い時代だった。
2 ダブルウイスキー対カプッチーノとコルネット
50年代初期から、いわゆる「動きまわるカメラマン」達はベネト通りにある、お世辞にも洒落ているとはいえないバール「カッフェ・ド・パリに夜10時頃からたむろしていた。このバールの唯一の利点といえば、目の前に高級ホテル「Grand Hotel Excelsior」があったことだ。多くの映画スターたちがこのホテルに宿泊し、夜のローマの散歩にでる場所でもあった。
何かスクープを撮ってやろうと待ち構えるカメラマン達の夕食は、バールでその日売れ残った値引きしてある朝食用のコルネット(甘いクロワッサン)とカプチーノで、ゴミ箱行きになる直前のものであった。きらびやかな生活を送るスターを世の中に伝える仕事をする彼らには、人並みの夕食さえまかなえないものであった。彼らはスクープの瞬間を夢見て夜な夜なバールで過ごしていた。
夜明け頃、寒さで凍えながら、又はずぶぬれで腹をすかして、手ぶらで寂れたローマ郊外の自宅にもどることもしばしばあった。しかし父親の写真屋でパスポートの証明写真を撮る仕事や、店の店員として働くことを考えれば、寒さや飢えはなんでもないと皆思っていた。苦しい事でも我慢して、いつかスクープを撮ってやる。週刊誌の表紙を飾り、自分の名前で2、3ページの特集写真をのせてやる。この瞬間の栄光と、そして収入を考えれば辛い生活でも耐えてやると固く心に誓っていた。
50年代と60年代、ローマのチネチッタでは多くのアメリカ映画が撮影されていた。「ハリウッドはテベレ河の上にある」と言われているくらいだった。第二次大戦中、イタリア首相だったムッソリーニはチネチッタにすばらしい撮影所を設立しており、映画に精通したレベルの高いスタッフがハリウッドの10分の1の値段ですむ。アメリカの映画配給会社、そしてスター達にとっては天国のような所だった。そして撮影地ローマは世界でも最も美しい街であり、スター達は美しいローマに夢中になったのである。
ローマはカメラマン達にとっても絶え間のないスクープの宝庫であった。スター達の隠れた恋愛、いざこざ、ビンタ、キス、酔っぱらい現場、酔って公共の泉に飛び込んで水浴びするなどなど。
戦後貧しい時期の、痩せてお腹をすかしたイタリア人の若者達はランブレッタ(Lambretta)やヴェスパ(Vespa)などのスクーター、古いサイドカーのついたバイクや壊れそうなトポリーノで移動した。自転車やトラムを使ったり、穴のあいた靴をはいて徒歩で移動していたものもいた。撮った写真は地下の現像場に持って行き、大きな黒い布をで光を遮りながらネガを守った。当時は皆ローライフレックス(Rolleiflex)社のフラッシュを備えたカメラを使用していた。6x6cmサイズの12枚撮りであった。アメリカ人カメラマンが使っていたスピードグラフィックという重くて場所をとるものよりはるかに使いやすく軽いものであった。スピードグラフィックはネガが大きく、5x4インチで乾きが早く、画像の質がよいという利点があった。しかしシャッターをきるたびにネガとフラッシュの電球を取り替えなければならなかった。
時々は質の良い写真も撮れたが、質が悪いもなにも、写真が撮れていない事もよくあった。写真を撮る準備をしている間に決定的瞬間は終わってしまう。「写真を撮れなかったなどということは、僕らパパラッチにはほとんど絶対にありえないことだった。このローライフレックスだと連射もできたし、5秒で12回のシャッターを切ることだって可能だった」と冷ややかな笑いを浮かべてアドリアーノ・バルトローニ(後の章で登場するパパラッチの一人)は言う。「写真を撮ったらすばやくフィルムを巻いてパンツの下に隠して、屈強なボディガードや激怒したスター達から逃げる時間まであったのさ。あるいは降参するふりをして新しいフィルムをカメラにセットしたり、撮った写真のフィルムを渡すふりをして新しいフィルムを差し出したり・・・。それでもパンチがとぶことはしょっちゅうだったけれど、急いで現像しに走っていき、週刊誌に売りさばくことはできたのさ」と今ではローマのクローマ(Croma)エージェンシーの社長となったバルトローニは語る。
これらの大小様々なスターのスクープを、アメリカのAP通信社がローマ支社を通じて、独占契約を結んだアメリカの雑誌社に売りさばいていた。大げさではなくこの仕事の形態を「Hollywood on the Tiber」(テベレ河に浮かぶハリウッド)と呼んでいたのだった。
60年代後半、幸運にも長期に渡り、私がローマのAP通信社の写真部門の責任者として写真の管理をする仕事に就き、多くの名を成したパパラッチ達と深い交流を持ち、時には彼らの親しい友人として見聞きした話をこの本の中でご紹介する。
つづく
シルヴィオ・ピエルサンティ
訳、朝田今日子