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森の書斎から 〜 Silvio's Words
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Silvio's Words
 
パパラッチ 3
2006年2月19日(日)   

5 「王子」リーノ・バリッラーリ

当然のことながら、パパラッチ達の“戦利品”の標的はいつも映画スター達だった。面白い写真を撮るコツは、若手のパパラッチ仲間を利用することだ。最もよく使われたのは、スターが逆上することを十分計算に入れて若手カメラマンが突撃する方法だ。スターが若手パパラッチに殴りかかるところへ熟練のパパラッチが飛び出して行き、すかさずその場面をカメラに収める。怒ったスターが若手パパラッチに攻撃を加える場面をバッチリとらえた写真は、翌日にはすべての新聞に掲載されていることになる。
 
 VIP達に最も多く殴られたり蹴られたりしたパパラッチといえば、それは間違いなく、リーノ・バリッラーリだ。別名「王子」。どんな苦境でもその洗練された紳士的な態度をくずさない様子から、このあだ名がついた。彼ほど多くの難関を乗り越えてきたパパラッチはいないだろう。30年のパパラッチ人生の中で、なんと160回も病院に運ばれ、激怒したVIPに壊されたカメラ機材は70個。
 「スター達は色紙ではなく僕の肌にサインを残していくのさ」と言ってバリッラーリは数々の衝突の際にできた傷跡を見せてくれる。「これがマーロン・ブランドの時、これがフランク・シナトラ、こっちがエジプトのファルーク王、などなど。多分撮ったスクープ写真の報酬よりも保険会社が僕に支払った保険金の額の方が大きかったのではないかな。実際、こうしょっちゅう保険を払う目にあっていては、保険会社は誰も僕に保険をかけたがらなくなってしまったよ。」
 「甘い生活って呼ばれていたけれど、僕にとってはちっとも甘い生活ではなかったな。撮った写真のフィルムを守るため、自分のパンをまかなうために受けた暴力ははかりしれない。以前ベネト通りのカッフェ・ド・パリで、フランク・シナトラを写真に収めた時だった。ばかでかいボディガードがすごい剣幕で向かってきたから、経験上、さっと後ろを向いて撮ったフィルムを口の中に入れ、それから攻撃をよけようと手で顔を塞いだ。でも不運なことに、ボディガードのげんこつは僕の顎にぶちあたって、口の中に入っていたフィルムは喉の奥に入ってしまった。本当に大げさではなくて、窒息死するところだったよ。なんとかフィルムを吐き出したのだけれど、その中には僕の歯も何本か入っていた。地面に落としてしまった僕のカメラをボディガードが足でメチャクチャに壊してしまったよ」
「フェリーニは、映画のセットの中に“バリッラーリ”が出てきた時、僕をからかうように、“どうしていつもアザだらけなんだろうね。君にはカメラマンよりシューティング・パートナーの方がむいているのじゃないかね。映画の世界にいるよりはボクシングジムに通った方がいいかもしれない”と言っていた」

「さらに別の日には、」と王子さまは続ける。
「真夜中にマーロン・ブランドが極秘の恋人とロマンティックにローマのテウヴェレ河の浮き島“イーゾラ ティベリーナ”を散歩している所にでくわしたんだ。カメラのフラッシュが見えた途端、彼は空き瓶を手に握ると、地面に叩き付けて壊し、それを僕にぶつけたんだ。ほんとにあんなに怒り狂っているのははじめて見たよ。唯一逃げる道は河に飛び込んで、泳いで向こう岸まで渡る以外なかった。当然のことながら、フィルムも機材も台無しになってしまった。
「ジョン・ウェインもそうだった。ベネト通りの真ん中で酔っぱらって踊っているところをスクープしたんだ。あれは世界中にばらまかれた僕のスクープ写真の一枚だ。その時もひどい目にあったよ。ネクタイの下に隠しカメラをしかけておいたにもかかわらず、あの俳優はすぐにそれを見抜いて僕に突進してきた。最悪の剣幕だった。僕は彼の大ファンでね、一瞬彼が映画の中で大男と戦っているシーンが頭を駆け巡ったよ。“もしとっつかまったら命はないぞ”と自分に言い聞かせた。幸運なことにパンチを命中させるには彼は酔っぱらい過ぎていたんだ。下顎を殴られた以外はほとんどの攻撃をよけられたので、顎以外はかすり傷ですんだのさ。」
「パパラッチ人生の中でも最もやばかったのは、なんと言っても1962年のピーター・オトールとの合戦だ。彼はローマで「La Bibbia」(聖書)という映画の撮影に参加していた。驚いたことにオトールがバーバラ・スティールを抱きしめたんだ。僕のごく初期の仕事で、僕の反応の鈍さが災いしたみたいで、オトールの猛烈な攻撃から逃れられなかった。シャッターを押した次の瞬間のことだった。何がなんだかわからずに地面に叩き付けられた。次に目が覚めたのは病院の中で、その後20日間も入院することになった。僕はまだ未成年で、オトールを相手に裁判を起こした。その時の慰謝料(?)の金額は2000ドルで、あの時代のイタリアでは2千ドルというのはちょっとした幸運話だと思われていた。そしてオトールは僕をローマでも指折りの超高級レストランに招いて、その場でピッタリ2千ドルを支払ったのだ。あの夜のことは忘れられないよ。だってぼくの仕事仲間のパパラッチ達が僕の前に一列に並んで、僕と“アラビアのロレンス”の写真を撮っていたのだもの。あの機会に思ったのは、「仕事と別の所で被写体と一緒にいることは、なんて心地よくて困難とは程遠いことなのだろうということだった」

 
 週刊誌の編集長がスクープ写真を持ったパパラッチを前にする時、それがスターの最新の恋人の写真だったりすると、編集長の最初の質問は必ず「キス写真はある?」だ。実際、スターの新しい恋の最初のキス写真というのは大スクープである。マリオ・ブレンナはそのことをよく知っている。彼は最近の若いパパラッチの中で最も優秀だと言われている。彼は、ジャーナリズムの世界で最も高額のキス写真を売ったことでも知られている。30億リラで売れたその写真の被写体とは、あのパパラッチが原因で事故死したと言われている、ダイアナ元妃とドーディ・アルファイド氏の最初のキス写真である。
 マリオ・ブレンナはパパラッチと言われることを嫌う。ブレンナはステファノ・カシラギ(グレイス・ケリーの娘でモナコ王女カロラインの夫)の気心の知れた友人で、モナコ王室グリマルディ家の公式のカメラマンでもある。彼自身、あの、税金を払わなくてもよい、金持ちの天国と言われるモンテカルロに居住している。

 30億リラなどという金額はそれまでどの新聞社も払ったことがなかった。イギリスのタブロイド紙、サンデイ・ミラーの写真部がダイアナとドーディのキス写真を撮ったとブレンナから電話を受け取った時、編集者はこのカメラマンはゼロを一桁間違えているのではないかと耳を疑った。ブレンナの提示した金額は、7億2千万リラだった。「7千200万リラの間違いでは?」と問うと、「NO! 7億2千万リラだ。編集長を出してくれ」とブレンナは答えた。編集長はなんの写真かを理解したとたん、迷わず提示金額を承諾した。この瞬間に、写真ジャーナリズムにおける世紀の取引がまとまった。
 マリオ・ブレンナは実際、あの時期世界最高の金持ちのパパラッチであった。7億2千万リラを受け取ってサンデーミラー紙がでた後も、別の角度から撮ったダイアナとドーディのキス写真を他のいくつかの新聞社に売って20億リラ稼ぎ、さらに雑誌社には使用後の写真を1枚3億リラで売りさばいたのだ。というわけで、彼は全部で30億リラを稼いだことになる。もちろん税金をとられないモナコ公国の住民なので、そっくりそのままいただいたわけだ。そして前代未聞の高額を支払ったサンデイ・ミラーだが、このスクープ写真で200万部を売りさばいたので、ブレンナにはまったく文句を言えない。この儲けは写真に支払った出費の何倍もの売り上げと、さらに莫大な宣伝費につながったのだから。


   

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